代表プロフィール

山本 忠司  (やまもと ただし)

 昭和42年   静岡県湖西市出身
 昭和60年   静岡県立浜松南高等学校 卒業
 平成3年    北海道大学 工学部建築工学科 卒業
 平成3〜7年  株式会社 大林組九州支店建築設計部 勤務
 平成7〜12年 株式会社 大林組東京本社設計部 勤務
 平成13年   株式会社 榊住建 勤務
 平成14年   一級建築士事務所 司設計工房 設立

資 格

 一級建築士
 ホームインスペクター(日本ホームインスペクターズ協会)
 耐震診断・耐震改修技術者(一般財団法人 日本建築防災協会)
 住宅ローンアドバイザー(一般財団法人 住宅金融普及協会)
 既存住宅現況検査技術者(一般財団法人 住宅瑕疵担保責任保険協会)

趣 味

 バイクに乗ること
 本を読むこと
 泳ぐこと
 プロレスを観ること
   ネコと遊ぶこと

よく観るテレビ番組

 カンブリア宮殿
 ガイアの夜明け
 未来世紀ジパング
 ワールドプロレスリング
 鶴瓶の家族に乾杯





代 表 よ り 一 言


私がなぜ木造住宅を主とする設計事務所をはじめたのか。それについて書いてみたいと思います。


転機は二度ありました。一度目は実家の建て替え時、そして二度目は地場の工務店の完成見学会に参加した時です。


自分がまだゼネコンの設計部に所属して間もない20代の頃、実家は取り壊され、地元の大工さんの手で建て替えられました。ヒノキの6寸角の柱と地松の梁を使った手刻みの見事な骨組みに土壁造りといった昔からの造り方でした。
しかし、いざ完成したその家を見ると、和室を除いてはビニルクロス貼りの壁や天井ばかり、外壁は土壁のおもむきは全く見られないサイディング貼りの家で、どこかハウスメーカーの建てる住宅のようでした。
「どこかおかしい、これではいけない」という漠然とした気持ちを、答えのないままその後ずっと持ち続けていました。


生まれ育った静岡の実家は、建て替えられた家と同じように土壁造りで、通り土間のある典型的な田の字型の農家住宅でした。
ただ、土壁造りの家といっても壁があるのは妻側の東面と西面だけで、南面と北面はほとんど全てが開口部でした。
内部も壁があるのは漆喰塗りで仕上げられた押入くらい。フスマと障子を取り払えば、見事にワンルームとなるような間取りで風通しは抜群。当時、近所にも似たような間取りの家がたくさんありました。


自分が小学生の頃までは、通り土間の隅っこにあったかまどに薪をくべてご飯を焚いていました。
給湯器が付いたのは、小学生の高学年の頃だったと思います。それでようやく真冬の早朝でも、お湯で顔を洗うことができようになりました。
当然お風呂もなく、近所の共同風呂に毎日入りに行っていました。共同風呂というのは銭湯のようなものですが、個人が経営しているわけではなく、地域全体で営んでいる共同経営の銭湯のようなものです。その共同風呂で大人から子供まで、近所の人たちがまさしく裸の付き合いをしていました。
お風呂はありませんでしたが、幸いにも便所はありました。当たり前ですよね。ただ、もちろん水洗などというものはまだなく、いわゆる「ポットン便所」と言われるくみ取り式でした。
薄暗い便所だったので、足を踏み外して落ちてしまうのでないか、お化けの手が下から出てくるのではないか、と子供の頃は思ったものです。
夜中におしっこに行きたくても、怖いので母親についてきてもらっていたほどです。冬場は寒さも加わって、おしっこをしたくても余計に布団から出られませんでした。


床下では野良猫が子供を生み育て、天井裏では鼠が走り回っていました。
さすがに蛇が出てきた記憶はありませんが、手の平大のクモがかさかさと歩き回り、そのクモを叩き潰したら四方八方にクモの子が散っていったこともありました。もちろんゴキブリは珍しいものではなく、海が近かったためにフナムシもよく床に上がってきていました。今思えばその頃はいろんな生物と同居していたんですね。


二度目の転機は、働き始めて8年か9年目の頃だったかと思います。
たまたま地元の工務店が開催していた完成見学会に訪れたことによって、住宅に関する自分のこれまでの知識が一度にリセットされてしまいました。


我々のように設計をかじったものであっても、木造は未知の分野でした。コンクリート造の住宅は設計できても、木造の住宅を設計できる者は、自分も含めてまわりにはほとんどいませんでした。


その頃は、木の家を建てるとなれば当然のごとく、SハウスやS林業などの大手ハウスメーカーに依頼するものとばかり思っていました。
「工務店」イコール「大手ハウスメーカーより劣る企業」という、全くもって勘違いもはなはだしい知識しか持ち合わせておらず、埼玉の地場の工務店の存在自体を認識しておりませんでした。


その完成見学会に訪れた家は、木をふんだんに使ったいい香りがする家で、節有りのスギやヒノキの柱、漆喰塗りの壁、冷たくない無垢の床板などを当たり前のように使っていました。いわゆる“ビルもの”、“箱もの”といわれる建物ばかり設計してきた自分にとってはまさに新鮮な素材ばかりでした。
室内の建具に目を向ければ、これまた建具屋さんが造ったもの。木製ドアといえば、D工業やM電工等の分厚いカタログから選ぶものという感覚でしたので、びっくりです。
地場の工務店のつくった住宅だからといって、ハウスメーカーの住宅に比べても決して野暮ったい印象はなく、逆に近寄りがたい高級住宅というものでもありませんでした。
その工務店が言うには、「普段着のような住まい」とのことでしたが、こういう世界がまだ残っているのだと、恥ずかしながら初めてその時知り、カルチャーショックを受けてしまいました。
そして同時に、木造住宅の分野はまだまだ捨てたもんじゃない。いろんな可能性が開けていると、その時感じ、実家の建て替えの時からモヤモヤしていた気持ちがスッキリと晴れた気分でした。


ゼネコンの設計部に在籍していた頃は、木材といえば、マンションで使うような合板フローリングか、木目を印刷した塩ビシートやビニルクロス(これはそもそも木ではないですね)、ちょっと高級なものでは、本物の木を薄くスライスしたものをベニヤの上に貼った練り付け合板くらいしか目にすることもありませんでした。
「ヒノキ」と聞いただけで、超高級品だから特別な建物でなければ採用できないものとばかり思っていましたから。今思えば本当にはずかしい限りです。


自分が通っていた頃の大学での建築教育では、「ハウスメーカーは建築の分野においてはどちらかといえば好ましくないモノ」という風潮があったように思えます。当然のごとく、当時就職先としてハウスメーカーを選択した同期もいませんでした。
それなのに、何年もたたないうちに、テレビで流されるハウスメーカーの大量なCMによって知らず知らずのうちに洗脳(?)されてしまっていた自分がいました。
ハウスメーカーが使うモノが一般的なモノ、間違いのないモノ。合板フローリングであったり、ビニルクロスであったり、窯業系のサイディングであったり。
ましてやそういったものを使わないと、現代の住宅はできないのだと誤解していました。


スギの木もヒノキの木も日本にはありあまっています。
技術力のある大工さんもまだまだ残っていますし、育っています。建具屋さんも左官屋さんも。
しかしながら、大手ハウスメーカーや20世紀後半から台頭してきたローコストビルダーでは、そういった木材も職人さんの技術も活かすことはできません。
でも、地場の工務店ならそれができる。それが自分が出した答えでした。
そして、その手助けを設計に関わる者として自分がやっていければ。そんな風に考え、独立の道を選んだわけです。


木の良さを活かしつつ、「デザイン」と「性能」と「コスト」、この3つのバランスが取れた居心地のよい住まいづくりをこれからも提案していきたいと思います。